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大きな手 前篇


 翔太の父方の祖父祖母は山村に生まれ、山村に暮らす、所謂田舎の人間で、父が帰郷する際には常に心を躍らせて付いていったものだ。都会で生まれ育った翔太にとって田舎での生活というものは、全く慣れぬ非日常そのものであった。例えば家の倉庫に仕舞われていたり軒下に掛けられていたりする農具一つをとっても、都会っ子の翔太にとっては物珍しく、それらを玩具にするだけで一夏の帰郷を存分に楽しむ事が出来た。
 特に翔太や翔太の妹のお気に入りだったのが、収穫した野菜果物を選別する際に用いるであろう、ローラーのついたコンベアーであった。五メートル程の長さのそれを斜めに立て掛け、緩い傾斜をつけて、その上をそり宜しく籠に乗って滑るのである。また、祖父祖母の家の前、広い庭先で焼き肉などをし、その後花火を興じるのも、自宅とは全く異なる趣であった。都会では気にせずにはいられない隣人の家々や電線や自宅の狭い庭先など、障害となるものは何もなく、幾ら肉を燻し煙を出そうとも、炭の粕で庭を汚そうとも、騒ごうとも、花火を打ち上げようとも、一切の余計な配慮を必要としなかった。否、少なくとも大人達は少しばかりは気に掛けねばならぬ事もあったであろう。しかし、それも都会でのそれと比すれば微々たるものであったろうし、何より翔太はまだ幼い子供であった。そして子供特有の敏感さをもってしても、やはり大人、つまり自分の父母が普段よりものんびりと楽しめている様に思えた。
 冬は冬で、祖父祖母のくれるお年玉があり、また正月のゆったりとした空気が、田舎という環境を得て更にのんびりと、亀の歩みの如きものとなり、炬燵で温く温くと転寝しても親に叱られぬ、灯油ストーブの上では餅の膨れて今にも弾けそう、食事は母の作るものとはまた一味違う雑煮に色彩々の御節料理と大きな焼き魚の御頭付きで、もう一つテレビで流される番組も、駅伝であったり特集であったりと一役買って、これ復家では味わえぬ様な休暇であった。
 勿論の事自然も豊富で、先ず目に入るのは家の前、大きく拓けた一面の山景色で、それに加えて夏は都会のそれより余程輝く満天の星、鳴く蝉の種類、夏らしい暑さも都会とは全く違う様相であり、冬は少し厳し目の寒さと、その寒さを耐えてまで見る価値のあろう、澄んだ空気の向こうの、やはり大きく輝く星々に、時折降る雪があった。そして何より、これら素晴らしき田舎を代表するのが、祖父母であった。彼らは翔太と妹が訪れる度、笑顔で出迎えてくれ、様々な趣向を用意して彼らをいつも待っていてくれたのである。翔太はついぞ祖父母の怒った顔など見た事がなかったし、退屈な休暇など想像も出来なかった。全く翔太にとって、田舎とそこに住まう祖父祖母は、非日常の象徴であった。
 
 しかし、そんな翔太もやがて成長し、夏冬の休暇には田舎に行くよりも都会での刺激的な生活を好む様な歳となった。かつての記憶は懐かしく、又帰郷に子供の付いて来ない父親の少し寂しげな顔を見るに、少しばかりは翔太も、田舎へ行く事を考えぬでもなかったが、やはりそこには少しの気恥ずかしさと物臭さ、そして何より友人達の顔が、翔太を田舎へと赴かせぬ一番の理由となっていた。祖父祖母の顔など既に朧気で、田舎は遠く濃霧の彼方に存在している様に思えた。
 
 そんな翔太が高校生になり、その高校生活も残り一年となった頃、田舎の祖父が病で倒れた、という報せが父親の許に入った。祖父は最寄の都市の病院に入院せねばならぬ程の事態であるらしい。季節は春が訪れ、丁度子供達が短い春休みを謳歌する頃であり、翔太には大学受験が控えているとは言え、それも未だ少し先の話であったから、翔太は父に付いて、祖父の見舞いに行く事となった。祖父の容態は如何か、そして久しぶりの田舎の様はどの様であるか、それぞれに何か後ろめたい不安感を抱きながらも、翔太は家族と共に久々の帰郷を果たす事となった。
 車に揺られる事幾時間、翔太は見慣れぬ都市の、見慣れぬ病院の前に立っていた。翔太はてっきり、田舎に再び行く事になると思っていたのだが、よくよく考えてみれば解る事、今や祖父の居るのは懐かしき田舎ではなく、この翔太の眼前に聳え立つ病院であるのだ。翔太はこの病院、地方大学の付属病院であるという事だが、これを一目見た瞬間から、何か嫌な印象を受けていた。妙に拒絶感がある、それが翔太の第一印象であった。勿論病院の施設は進んだもので、職員達も決して横柄な態度であったり、翔太達をぞんざいに扱う事もない、寧ろ親しみを込めた笑顔で出迎えてくれたのだが、それが却って翔太には胡散臭く感じられた。
 祖父の入院するという八階まで来て、祖父が診察中であるというので、翔太達はロビーで暫時待たされる事となった。ロビーには幾人かの入院患者の歓談が密やかに行われ、壁一面に渡る大きな窓から緩く光が差し込み、照明の要らぬ程に明るく静かな室内を演出していた。病院は丘の天辺に位置し、ロビーの窓から見渡せる景色は中々のもので、眼下には見慣れぬ街が延々と広がっていた。翔太はこの光景に、心安らぐものを感じた。上空は薄曇りで陽光柔らかに、左手の端には静かに海が広がり、間には市街を挟んで、右手の奥の方には山が連なり、青々としていた。祖父の家のある山村は何処だろう、あの山か、それとも隣の山か、など思案する事で、翔太はやはり帰郷したのだと曲がりなりにも思える様になった。
 診察が終わり、いよいよ面会の時間となった。翔太は家族と連れ立って病室に入った。スライドする扉の向こう、お決まりの消毒液の匂いと少し腐った様な空気に満たされた白い殺風景な個室の中央、ベッドの上に祖父は臥していた。傍らには祖母も控え、祖父母が揃って翔太達一家を出迎える形となった。
「あれ、翔太か。ほんに大きくなって……」
それが祖母の第一声であった。
「お久しぶりです」
遠い過去とは違い、気恥ずかしさから翔太は、祖母に対し敬語を使った。そうして祖母と翔太は挨拶を交わしたが、祖父からの挨拶はなかった。祖父の口元にはチューブが伸び、マスクが口元を覆って祖父の喋るのを妨げていた。翔太には、嘗て田舎で自分を出迎えてくれた祖父と、今ベッドの上に臥す祖父が同じ人であるとは、到底信じられない気持ちだった。翔太の記憶の中に生きる優しい祖父、大きな祖父とは違う、年老いた一人の人間がそこには居た。とてもみじめだ、翔太はそう思わざるを得なかった。この直ぐ後に翔太が知った事だが、祖父が患ったのは肺で、気道切開の為、その時の祖父は喋る事も出来ぬ様であったという事だった。それは一層、現在の祖父を嘗ての祖父と乖離させる情報であったと言える。しかし、その時の祖父の意識ははっきりしたもので、祖父の視線は凝と翔太、そして妹に注がれていた。その眼は少し潤んで、単なる歓迎以上の思いが含まれている様に翔太には思えた。
「親父、皆連れて来たぞ」
翔太の父が声を掛けた。祖父は何度も何度も頷いた。翔太は何と声を掛けるべきか分からなかったが、それでも父に背を押される形でベッドの直ぐ横に立った。
「爺ちゃん、大丈夫ですか」
結局口を衝いて出た言葉は当たり障りのないものであったが、それでも祖父は嬉しそうな顔で頷いてくれた。
「冬にひいた風邪を拗らせてねえ。今、管を入れているから、喋られないんよ。爺さん、分かるか」
祖母の口添えが入った。その言葉にも祖父は頷いた。それから、医者から説明を受けると言って退席した父を除いて暫時翔太達と祖父母、勿論喋る事が出来るのは祖母だけであったが、会話の遣り取りが続いた。二十分程してそこそこ一連の遣り取りが終わろうかという段になって母は一度翔太達を連れて病室を出た。
「余り話を続けてもお爺ちゃんの体に障るから……」
事実、如何にかして喋ろうと試みた祖父が咳き込む場面もあり、長話は祖父の体力を損なうばかりの様であった。また翔太も正直に言うと、話題が尽き掛けていて困っていた所であったから、大人しく退室する事とした。
 再びロビーに戻った翔太達は、その一角を占領して寛いだ。幾分の気疲れを覚えながら、しかし春の穏やかな時が流れるのを翔太は感じていた。これが病院の中でなければ、そして祖父の見舞いでなければどれ程良かった事だろう、そう翔太は考えた。しかし、そう思ってもやはり、頭の中に浮かんで来るのは祖父の事であった。祖父の嘗て元気だった頃の姿、そして先程見た祖父の姿を交互に思い出しながら、翔太の目は凝と窓の外、連なる山々に注がれていた。翔太と翔太の妹は他愛の無い話をしていたが、しかし二人共、どこか上辺の空で話している様であった。きっと妹もまた、自分と同じく祖父の事を思い出していたのだろう。後に翔太はそう振り返った。
 翔太達の許に父が帰って来た。父の話では、やはり祖父は大分良くないとの事だった。父は話も早々に、祖父の病室へと再び去って行った。翔太達はそこから更に暫時時間を潰した後、再び祖父の病室へと向かった。
 再び翔太達は祖父の枕元に立った。そろそろ帰る時間が近づいていた。僅か二、三時間程しか病院に滞在出来なかった事は少し薄情にも思えたが、そうは言ってもそれ以上居続けた所で、得られるものは何も無かった。帰りに費やす時間や、明日も父母は仕事をしなければならない現実を考えると、ここ等が潮時であった。
「それじゃあそろそろ帰る」
父が告げた。そして父は翔太達に、最後に祖父の手を握ってやって欲しい、そう言った。妹が先ず祖父の手を握り、続いて翔太も祖父の手を握った。翔太はそこで初めて、祖父の手の大きさを知った。祖父の手は大きく頑丈で年季が刻まれ、祖父が農業に従事する者である事を如実に表していた。思わず眺めた祖父の体は、昔の人らしく背丈こそ低いものであったが、翔太の握る手と、そして足はがっしりとして、きっと祖父の数十年の人生を支えてきたのだろう、そう思わせる悠然とした手足であった。
「それじゃあ爺ちゃん、帰ります。お元気で」
そういって翔太は祖父の顔を見た。祖父の眼は翔太が最初この部屋に来た時と同じく、涙を湛えていた。翔太達が部屋に入って来た看護士と入れ替わりで辞そうとした正にその時、背中から呻く様な声が聞こえた。力強い唸り声であった。思わず振り返った翔太達は、それが祖父の嗚咽である事を知った。祖父はのたうって、声の出ない喉から無理に出した音と体全部で悲しみを表していた。咄嗟に看護士が祖父を抑えにかかったが、それでも祖父は動きを止めなかった。しかしやがて祖父は疲れ、大人しくならざるを得なかった。そこまで見届けてから翔太達は最後にもう一度別れの挨拶をして部屋を出た。
 病院を去る段になって翔太は、最初ここに来た時に抱いた嫌な感情を、既に持っていない事に気付いた。そんな事は些細な事に過ぎなかったのだ。帰りの車の中、翔太達一家は皆、何となく無口であった。翔太は窓から、忘と夕日を眺めていた。
 
 翔太の祖父が亡くなったのは、それから半年と経たぬ六月の終わりの頃であった。  
 



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