テイルドロップ
海鳴市の24時間営業のスーパーには、もうほとんど人はいない。
お客さんがいないから、売り物のお弁当も少なくて。
タイムサービスですら売り残ったのか、安売りのシールが何層も貼ってある握り寿司のパックを取って、レジに向かった。
ふと、横を見ると、お酒が売っていて。
ぜんぜん飲みたいとも思わなかったのに、ビールを2缶、買い物カゴに入れている自分に気がついた。
今日、いや、昨日は、大切な日だったのに。
私たちにとって、とても大事な日だったのに。
出逢って15年、はじめて私は、この大切な日に、大切な人と一緒にいられなかった。
一週間前に大変な仕事が舞い込んできて、その解決のために遠い次元世界に行っていた私は、それでも2日前に仕事を終わらせたんだけど、次元空間の不調で97管理外世界に行けなくて、しかも不調のせいでなのはにも連絡を入れることができなくて。
二人で過ごす、今では貴重な、海鳴での時間が、私のせいでなくなった。
心の中で何百回も祈ったけど間に合わなくて、今度は何百回もごめん、って謝ったけれど、それはなのはには届かなくて。
「お客さーん」
ぼうっとしてたのか、何度目かだと思う呼びかけに反応できた。
「あ、は、はいっ」
慌ててレジを見て、そこにあった金額の小銭を探したけれど、ないことに気づいてお札を取り出した。
「違いますよ、すいませんけど年齢確認させてくださいね」
え、という顔で店員を見たら、めんどくさそうにレジの横に貼り付けてあったところを指してくれた。お酒とタバコの年齢認証ということらしい。
確かに眠いのは分かるけど、その態度はなんなんだろう、って悲しくなった。
というか、私まだ子どもに見えるのかな?
そんなことを考えながら、管理局から渡されているこちら側の運転免許書を取り出して渡すと、店員はさっきのお札をとってさっとつり銭を渡してくれた。
いつもなら、なのはと買い物をして帰っていく時ならあっという間のこの道も、今日はとても遠い気がした。
1キロもないはずのビニール袋も、なぜかとても重い。
それに、なんだか寒かった。冬はもう過ぎたはずなのだけれども、吐く息はまだ白く、それを見るだけで憂鬱になる。
肝臓を悪くするからやめろ、と言われていたけれど、なんとか仕事を終わらせるために毎日飲んでた栄養ドリンクのダメージが今頃やってきたのか、風邪を引いたのかは分からないけれど、とにかく足が重い。
それに、今日向かう先は、いつものなのはの家ではなくて、そう、15年前に私が使っていたマンション。
あのマンションは、その後管理局員の駐在場所として空き部屋になっていて、今日は私が使う番。駐在場所なのだから当然なのだけど、あの頃とほとんど変わらないくらい物がないはずだ。
寒い。
雨の臭いっていうのか分からないけれど、町を覆っている空気は濁った臭いがしている。
歩いているだけで、悲しい気持ちになってくる。できるだけ忘れようとしていても、どうしても忘れられなくて、携帯をあけた。
なのはに送ったメールの返事は、まだ届いていない。
結局がっかりして、携帯を閉じてもやることはなかった。
空を見上げれば、月は雲に隠れていて、おぼろげに見える光がなんとか辛うじて輪郭を見せている感じだ。
マンションについて、ベッドにどさり、と倒れた私は、ブラウスのボタンをひとつ外して携帯を取り出す。
やっぱり返事はなくて、怒って返事もくれないのか、もう寝ているのか分からないけれど、でも返事は待っていたかった。
マンションの中も寒かったけれど、エアコンを入れる気にもなれなくて、あの頃みたいに一人で布団をかぶったけど、あの時とは違って、今はアルフも、隣にいない。
結局涙が溢れてきた。
テレビをつけても、ザーという機械音だけ。
頬を伝っていくのを止めることができなくて、布団に顔を埋めた。
雨の臭いとは違う、海のような臭いがした。
そういえば、あのとき落ちた海も、こんな臭いだっけ。
海は涙から出来ているのかもしれない。
そんなばかげたことを考えていたら、ベッドの横に置いたままのビニール袋に気がついた。
ビールと、お寿司。
自慢じゃないけど、ビールなんて飲んだことない。お兄ちゃんが飲んでいるのを少し見ただけ。
パックを空けたら、生臭さが鼻に染みた。
この魚も、私みたいに寂しい思いをしてたのかな。涙の中を泳いでいて。
つまんで食べたけど、美味しくなかった。ビールの缶を開けて、ぐいっと飲む。
まずかった。
気分が悪くなって、お手洗いに駆け込む。ばかみたい。
べっとりしたブラウスが気持ち悪い。
もう、何もかも嫌になってくる……
食べる気もなくなって、部屋に戻っても、何もすることもない。
寝てしまおう。
そう思った私は、お寿司の残りを処分して、ビールを冷蔵庫にもっていった。
「え――」
冷蔵庫の中にあったのは、ケーキでした。
何もないはずの冷蔵庫に、なんで入ってるのか、そんな疑問は浮かんではこない。
だって。金色に輝く、バルディッシュを象ったそのケーキを作れる人は、この世界でたった一人しかいないから。
ザッハトルテをベースとしたそのケーキには、ラップが掛かっていて、それを中身が壊れないように慎重にとると、木の実のいい匂いが漂ってきた。
甘酸っぱい感じが、鼻を通じて舌に届く。それだけで、今までの寂しさが嘘のように包み込まれるんだ。
急いで取り出して、ケーキを持っていった。
フォークで慎重に、一欠けらを取って口に運ぶ。
最初は、ビターの苦味が口の中に広がって、その後にしっかりと、チョコレートと杏の甘さが広がっていって、その甘美さに酔いしれた。
手足の先に、だんだん温かみが戻っていく。震える手でフォークでケーキを突っつけば、崩れまいと弾むそれを、もう少し圧力をかけて掬う。
正三角形の形は、もう正六角形になっていた。
ここからが迷いどころ。
どうフォークを入れていいのか、分からなくなった。
えい、と大きく入れると、残った等脚台形は、私の予想に反してバランスを崩して倒れてしまった。
あ、と手を伸ばしてももう遅く、ケーキは今や切断面を私のほうに向けていた。
けれど、そんなものよりも。
倒れたケーキの下の皿に、何かが書いてあったものが、私の視線を釘付けにした。
急いで、今日はじめて電気をつけると、そこに書いてあるのは「待ってる」の一言。
ケーキをしまうこともなく、扉が閉まる音が耳に届いた後は、息切れの自分の声しか聞こえなかった。
どこで待ってるのかなんてことは、愚問だと思う。
私に、誕生日は、ない。
記憶に残ってるアリシアの誕生日は、それはアリシアのもので、私なんかが横取りしていいものじゃない。
母さんに作ってもらった日が、私の誕生日なのかもしれないけれど、残念なことに、私はそれを覚えてはいない。
「フェイトちゃんの誕生日って……?」
なのはの誕生日に、そう尋ねられた私は、咄嗟にごまかそうとしたのだけれども、何も言えなくて。
祝ってあげなきゃいけない日に、涙を流してしまった。
心配かけちゃいけない日だったのに。
なのはに、楽しんでもらわないといけない日だったのに。
私が、楽しませてあげる日だったのに。
でも、なのははそれに怒ることなんかなくて――だから、胸が痛くて。
「ごめんね」
「ううん、私こそごめん。なのはの誕生日なのに」
「違うよ。私がフェイトちゃんのこと、まだしっかり分かってなかったんだ」
強くなきゃいけないと思ってたのに、逆になのはに抱きしめられて、耳元で囁かれたんだ。
「じゃあ、私がフェイトちゃんの誕生日、作ってあげる」
その囁きは、私の涙を止めるほどに甘かった。
「私だから作れる誕生日だよ?」
そう、私となのはにしか分からない、二人だけの誕生日。
それは、私が、私であることを始めた日。
それが、本当の誕生日だから。
なのはにもらった、誕生日だから。
だから。
最初の誕生日プレゼントをもらった場所で、なのはは待ってる。
陸風は、私にとって追い風。
少しでも、早くつきたい私の背中を押してくれるその風は、冷たい冷たい冬の風。
けれど、その冷たさを感じないくらいに私の胸は弾んでいる。
水溜りを思いっきり踏んで、足に掛かったけれども、もうそんなことは気にしてられない。
たった5分ほど走っただけなのに、胸の奥が焼けるように痛い。
けれど、あの場所、海に面した欄干の多いあの橋には、蛍のように弱い街灯の光に、確かに人影が映し出されていて。
最後の力を振り絞って、その人目掛けて脚に力を籠めた。
その人は、白いコートに身を包んでいて、じーっと海を見つめていた。
まず、言わなきゃいけない言葉がある。
けれど、それを言うには、まず呼吸を整える必要があって、膝に手をあてて、しっかりと息を吸う。
「ごめん……な……さい」
まだ乱れている息が、言葉を詰まらせる。
でも、私の意中の人は、まだじっと海を見て、私を見てくれない。
どうして?
どうして私を見てくれないの?
怒ったり、悲しんだり、どんな悪口を言われたっていい。
どうして、私のほうを見てくれないの?
「ごめん……」
私の口から出てるのは、謝罪の言葉なのに、その言葉は、涙にぬれていて、まるで幼子が何も分かっていないのにただ謝っているだけのような、そんな感じだった。
それでも、なのはは、ただ海を見つめているだけだった。
「ごめんなさい! ほんっとうに大切な日に、来ることができなくて……」
けれど、私にできることは、ただ謝ることだけしかない。
雲に隠れていた月が水面に映るけれども、それは波に揺られて朧げでしかない。
今のなのははまるで、あの月のよう。
私は、お月様をとろうとして、水に飛び込んでいるんじゃないか。そんな想いに囚われたときだった。
「ううん」
急に、なのはが声を出した。
それは、私がずっと待っていたものだったけれど、同時にその後の言葉が、ひどくおそろしい。
いったいなのはは、何を言うのだろうか。
これだけ待たせている私だ。
怒ってくれるだけなら、甘んじて受けられる。
けれど。
私たちの関係にヒビが入ったり……なのはがどこか遠くに行ったり……それだけで耐えられないのに。
絶交なんて言われたら、どうしよう。
でも、悪いのは私なんだ。
結局、私はだめな子だったんだよね。
なのはにさえ、見捨てられるなんて……
母さんも、なのはも、いつかはエリオやキャロだって、私のことを見てくれなくなるんだ。
いつか――
「フェイトちゃんは悪くないよ」
なのはの声が聞こえる。
「私たち、いつからだろうね。待つってこと、出来なくなっちゃったね」
その声は、咽ぶ私の心を包むように。
「待たなくても、一緒にいることが当たり前になっちゃってた」
その声は、凍る私の心を包むように。
「あの頃は、ただひたすらに、待っていたのにね」
なのはは、寂しさの滲んだ笑顔で私のほうを向いた。
そんな寂しい顔を見せないで。
そんな眼だと、私も寂しくなってしまう。
「なのはっ!」
私は、そのままなのはの胸に飛び込んだ。
「そうだよ。あの時とおなじ……」
飛び込んだ私を抱きとめて、なのはは赤子をあやすように私の顔を見る。
その顔に、もう寂しさは残っていなかった。
「やっと、やっと名前を呼んでくれたね」
「うん……」
「フェイトちゃんを待ってる間、ずっと辛かったんだ。今まで、携帯や、念話で、毎日のようにフェイトちゃんのことを分かっていたのに、今回、急に私の前から消えてしまうんだから」
「ごめんね……ぐすっ……私も辛かったよ」
「分かってる。さっきだって、私が呼びかけるのを、待ってたんでしょ?」
「うん……」
ゆっくり話しかけてくるなのはを見ていると、なぜか安心することができる。
「待ってることって、すごく怖いんだよ。待つってことは、予想できない未来を受け入れなきゃいけないことなんだ。分からないことを待つのは、怖いだよね。死んじゃうことが怖いのも、分からないことだからなんだ。私たち、その怖さから、ずっと逃げてたのかもね」
なのはの言ってることは、私にはよく分からなかったのかもしれない。
ただ、なのはの言ってる、「待ってる」ということから、私はずっと逃げていたのかもしれない。
待つということ。
私は、そんなことできはしない。
独りになりたくないから。独りぼっちは嫌だから。
だけど、みんながそんな気持ちを持っているということを、忘れちゃっていたのかな。
「だから、この場所に来るまで、フェイトちゃんのこと怒ってた自分が嫌いなんだ」
「なのは――?」
「私、あの頃の気持ち、忘れてた。伝えたい想いをぶつけて、待ってみる勇気を、忘れてた。この場所だからこそ、思い出せたんだよ」
なのはは、少し色あせた黒色のリボンを、ポケットから取り出した。
「昔、私が墜ちちゃった時……みんな私を待ってくれてたんだよね。だから、今でもみんな、心配してくれてるんだよね」
「そうだ……ね」
「いつも、フェイトちゃんの過保護はちょっぴり度が過ぎてる、と思ってたけどね、ふふ」
そう。
私は待つことなんて出来ない。
だから、いつも心配になって、取り乱して、失敗しちゃうんだ。
「そして、心配ばかりして、みんなから過保護だって思われてるちょっぴりドジな私のフェイトさんの想いはね」
まるで、こちらの心中を見透かしているようになのはが言う。
「いつもいつも、しっかり私に、伝わってるよ」
東の空が、少し明るくなってきた。
雲は前より少なくなり、西の空にはまだ辛うじていくつかの星が見える。
「フェイトちゃんの始まりの日、祝ってあげられなかったけど――」
私の暗い気持ちを、いつも晴らしてくれる人がいる。
待たなくても、私に手を差し伸べてくれている人がいる。
「私、あと1年待つよ。1年間、ひたすら待つよ。来年のこのとき、フェイトちゃんがまた仕事で来れないかもしれないし、今度は私が仕事で来れないかもしれないし、何が起こるかわかんないけど、そんな不安と一緒に、今度こそすばらしい1日がやってくるんだって、期待してるよ」
「……うん」
「でもね、これだけ言わせて」
咽び泣く私の耳元で、なのはは言った。
「遅れたけれど、誕生日おめでとう」
そう。こうしてなのはから、自分がここにいる証を祝ってもらえるということ。
それが、私が生きている証で、そしてこれから生きていく力になる。
「ありがとう」
それだけ言うのが精一杯だった。
私は、次の誕生日を待つことができる。
希望を持って生きていくだけの幸せがある。それが、母さんやアリシア、リニスからもらった生きる意味。
だから、前を向いて生きていきたい。
私の涙を拭ってくれる、なのはの手。
そこには、
涙摘の雫が、水平線の向こうにある太陽の光に映えていた。
あと364日。
こんな夜明けを、待っていく勇気が、なのはの手にあるテイルドロップ。
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